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vol.5  時を待つ

大徳寺 高桐院(現在は拝観不可)

 時には、その出来事の大きさに立ち止まることがある。

 山の裾野で5年ほど、30坪の畑を一人耕した。

 ながく放棄された農地は数百年前から田んぼだった場所で、畑になってからの歴史の方が短かった。硬い土には野菜が育つための栄養が乏しく、ほとんどゼロからの始まり。最初は有機肥料を鋤き込み、秋がくるたび広葉樹の落ち葉で堆肥を作り、化学肥料も農薬も使わないと決めていた。

 有機栽培とともに自然農法は少し前から広く知られるようになって、その道の本もいくつか手に取れた。根気がいることは覚悟で、数年かけて土を育て、生えてくる雑草の種類も少しずつ変わっていった。周りの畑はきれいに除草され、動物性の堆肥と少しの化成肥料を入れた畑でみるみる早く大きく育つ野菜の収穫に忙しい。かたや自分の畑は、発芽も成長も実りもずっとゆっくりゆっくりで、大きさもひと回り小さく、彼らの豊かな畑を横目に時折さみしい気持ちにもなった。
 それでも、雑草とほどほどに同居し、虫や小動物がたくさん暮らし、ゆっくりでも力強く育ってくれる野菜たちと一緒にいることが何より嬉しかった。

 ふつう、野菜を育てるには時期を見て種を蒔き、水やりや養生が欠かせないことになっている。けれど彼らと過ごすうちに、違う世界が見え始めた。堆肥の中に入れた野菜の残渣(ざんさ、収穫が終わって畑から抜いたもの)から、時期になるとひょっこりカボチャが芽を出し、堆肥の栄養をもらって畑よりもずっと立派な実をたくさん付けたり、こぼれ種で畝のそこここから野菜が育ち始めたりする。みな自分の「時」と場所をちゃんと心得ている。

 それ以来、適期に種を蒔いたら、あとは雨を待ち、彼らが芽を出したい時を待った。夏場も周りの人とは違い、水やりもやめた。

 森林や植物に関わる学者の話に、植物の根は地中で会話をしていること、はるか遠くに水源があることをちゃんと感じ取っていること、匂いや自分の作り出す物質を使ったりして虫ともコミュニケーションをとっていることなどが書かれていた。人間のように自由に動けず、声で会話ができないからといって、劣っている、知能がないというのは違う。
 彼らは子孫を残すために毎年種を作る分、激しく変化する地球環境に適応するスピードが人間よりもずっと早い。生き残ってゆくために絶えず命がけで努力している。だから、「時」を見つめる力がおのずと研ぎ澄まされる。

 じっくり自然に則って生きる野菜たちは、始めはゆっくりでも最終的には遜色なくたくましく育つ。漆仕事もあらゆることも、同じように気長な時間とともにある。


 畏れながらも狼狽することなく、今やるべきことに向き合い、土を耕し種を蒔くように雨が降る「その時」をじっくり待てばいいのだと教えられる。

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