
東京国立博物館蔵
出典:Colbase
「易は変易なり、事物の変化することである」
宇宙間のあらゆる万物は、大きい物でも小さいものでも、天も地も人も万物も、皆、天地の開闢以前より天地の滅亡の後までも、年々歳々、時々刻々に変化し、あるいは進歩し、あるいは退歩して変わって行き、しばらくの間も同じところにじっとしていないのである___。
私は占いはしないし、特定の宗教にも思想にも属さない。お寺や神社で手を合わせ、お盆にはお経をあげるような標準的な日本人だが、中国の四書五経のうちの一つである「易経」は折々に読み進めている。
今から800年ほど前の鎌倉時代、鴨長明が『方丈記』の中で「行く川の流れは絶えずして___」と書いているが、『易経』は5000年前、中国の神話に登場する帝王が自然界を観察し、イメージとして作ったのが始まりで、その後3000年前の周王朝の時代に文章として解釈を加え形になったと言われている。
日々いろいろな方と話す中で、共通して行きつくのは、絶え間ない「変化」とそれを包括する「宇宙」「自然」のこと。
鴨長明だけではない、アインシュタイン、ニュートン、宇宙飛行士、宇宙物理学者、素粒子物理学者、芸術家に至るまで、手段は違ってもみな最終的にその一点に至っているように見える。数学の方程式ひとつとってみても、そして自然の造る形、動植物の形や仕組み、あらゆるものは全て完全な形で成り立っている。
『易経』は儒教の経典となってから、国を治める帝王学とされたが、成立は自然あるいは事象の法則を観察し尽くした統計学でもある。その揺るぎない変化の法則は、大局的に見てほぼ例外なく当てはまっているのである。
23億年前から変化し続ける宇宙にある人間は自然物である。「自然の一部」ではなく「自然そのもの」だと言える。
事物に向き合い続けることは、つまり自然に向き合うことであり、やがて宇宙の仕組みそのものに辿り着く。数学はそれを数字で表し、芸術家は造形で、書物を記す者は文字でそれを表現しようとしているのではないだろうか。
古の人々が、現代の私たちには理解できないような高度な技術や知識で建造物や絵画を残したのは、彼らが濃密に自然と対峙せざるを得なかった状況の中で自ずと生まれたものではなかったか。
漆という、自然のエネルギーに触れている時、得も言われぬ不思議な安定と、健全な疲れを得る。漆は、ウルシの木が傷つけられることによって、傷を治すために出す樹液で、私たちが傷口にかさぶたを作るのと似ている。その漆で陶磁器を治す(直す)という組合せが、自然の力で壊れた造形を限りなく細密に見つめるという、宇宙が凝縮された世界観と同時に、ありがたいことに時折触れさせていただける、数百年前の古陶磁という遥かな歴史の流れの中で過ごす感覚の交わりが生み出す「美しさ」であって、これほど引き込まれる魅力なのかもしれない。
古代に比較すれば、自然から離れ、あるいは完全に引き離されてしまった私たちは本来必要なものの多くを失ってしまったように見える。単純な事実でありながら、辿り着けない難題と知りつつ「あるがまま」「諸行無常」「如是」「自然法爾」「事実唯真」「人法地」「天何言哉」全てに共通する変化に、そこにある「美」に、僅かでも近づきたいと願う。
