( click menu + scroll ↓ )

vol.10 うつわの記憶

 

染付草文油壺 (出典ColBase)

 

人はいつからうつわの存在を意識するのだろう。
 
 幼少期は四国で過ごす機会が多く、末っ子だったのでいつも従兄姉の背中を追いかけては、勝手に自転車を借りて近くの駄菓子屋(日用品も売っている)まで行ってみたり、学校のプールに当たり前のように付いて行き、従兄にちょっと恥ずかしい思いをさせたり、みかん山の手伝いと称し摘果したみかんを投げて遊んだり、蛇の抜け殻におののいたりした。年上の従兄のみかん速球が直撃し、半泣きになったのを覚えている。

 今も慕う伯母は、子育てや山仕事に忙しい中でも選ぶやきものや季節の手仕事、会話のセンスが光り、教わることが多かった。採れたての野菜や瀬戸内海の豊かな魚が並ぶごはんは目にもごちそう。砥部焼が好きで一、二度、子供たちを窯元へ連れて行ってくれことがある。
 砥部焼は今や民芸のくくりで扱われることも多いが、土地の人々にとっては慣れ親しんだ日常のやきもの。暮らしの中に好みのうつわを揃える楽しみを子供心に知った。

 折々に親戚が集まる祖母の家は、昭和らしい磁器がたくさん並ぶごくありふれた食器棚だったが、庶民的な感じはほっとするし、四国の穏やかな海や丸い山々、白い砂質の土地と共に心の原風景になっている。
 実母が早世し、若くして家を出て宮大工として一人身を立てた苦労人の祖父の生家は、輪島塗の漆器がずらりと並ぶような料亭だったそうで、きれいどころ(京都で言えば芸舞妓さんだろうか)もお出入りする華やかな店だったらしい。育った環境のためか、祖父は味にうるさかった。戦時中は戦艦大和内の大工仕事をしたと話していたが、遠方への出兵については口を閉ざしていたように思う。
 そんな気難しくも、こだわりのうつわに触れて育った祖父の血を受け継いでいるのかもしれない。
 
 働き出して、自分のうつわを少しずつ揃えるようになると、今では食器棚に一つも残っていないようなものも買ったりした。不思議とそういったものはすぐに飽きて、整理する度に一つ、二つと姿を消していく。
 歳と共に持っているうつわが変わるのは面白いものだなと思う。
 昔読み耽った向田邦子さんの骨董趣味の世界も加わって、茶道具の世界と少しずつ距離を縮めながら、人生の半分ほどまで来た。
 
 老子曰く、
「五色令人目盲」(五色は人の目をして盲ならしむ)
手に入りにくい珍しい品は人の行動を誤らせる
数寄者でもあるまいし、骨董趣味はほどほどにと自分に言い聞かせる。